佐々木朗希の父や母の職業は何?母子家庭での兄のエピソードとは!

佐々木朗希の父とのエピソードや母の職業は何なのかなどが注目選手になってきたぶん気になるところですね、母子家庭での兄との存在はどうだったのか?今回は佐々木朗希の父や母の職業などについてや母子家庭での兄のエピソードなどについて詳しく調べて書いて行きたいと思います

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佐々木朗希の大震災で被災していた過去について

佐々木朗希選手は2001年11月3日生まれで岩手県陸前高田市の出身です。笹木選手が誕生して10年も経たない小学3年生の時に東日本大震災が発生しました。

陸前高田市と言えばとてつもない高さの大津波が襲ってきた場所であり、佐々木選手も被災して避難生活を送ることになったそうです。そして大船渡市に引っ越しをして、猪川小学校に転向されました。その後、大船渡中学校で過ごしていくうちに仲間としての絆も深まり、同じメンバーで甲子園を目指す気持ちが強くなっていったために、野球の強豪校のスカウトを蹴ってそのまま地元の大船渡高校へ進学されます。

佐々木朗希の父親について

佐々木朗希選手は大の負けず嫌いであると公言されています。一時期、携帯の待ち受け画像に横浜高校の最速152km/hを誇る左腕の及川雅貴に設定されていたそうですが、それは及川選手がU15日本代表で中学から有名だったからだそうです。

今まで及川選手と出会ったこともないのにライバル心を燃やしているところが負けず嫌いを公言しているところでもありますが、この負けず嫌いはお兄さんである琉希(りゅうき)さんによって身につけられたそうです。その理由の一つとして、佐々木選手は東日本大震災で父親である功太さんをはじめ、祖父の功さん、祖母の勝子さんを亡くしていたことが挙げられています。この時、父親である功太さんは37歳という若さでした。

佐々木朗希の父親の職業などについて

父親の功太さんはいつもニコニコと朗らかで、朗希選手3兄弟を常に愛し、愛された李オスの父親であったと言われているそうです。

スノーボードやジェットスキーを楽しむなどアクティブな趣味を持っていたそうで、朗希選手は背中につかまってジェットスキーを楽しんだことが今では良い思い出として残っているそうです。功太さんは葬儀屋さんにお勤めされていたようで、勤務時間が不規則だったために東日本大震災の当日の朝に朗希選手は功太さんと顔を合わせないままとなってしまったそうです。

佐々木朗希の兄が父親代わりだった過去について!

兄である琉希さんは弟である朗希選手に父親代わりとして厳しく接していたようです。琉希さんも朗希選手と同じく大船渡高校の野球部所属で、4番を背負う選手でした。母親の陽子さんのコメントでは、琉希さんがすごく弟の朗希選手を厳しく接していた反動で、朗希選手が常に兄を超えようとしていたのだそうです。野球面でも生活面でも、朗希選手が琉希さんから褒められている姿を見たことが無いらしく、母親から見ていても可哀そうなくらいに朗希選手は琉希さんから厳しくされていたそうです。

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佐々木朗希を育てた母の職業などについて

母親である勝子さんですが、東日本大震災当時は会社員として勤められていたそうです。しかし、現在は何をされているのか情報を見つけることができませんでした。

佐々木郎希さんの収入が安定してきたら母親への親孝行も夢ではないですよね

佐々木朗希選手は世間に心配されている?

佐々木朗希選手と言えば、夏の甲子園が始まる前から全国高校野球ファンを大いに沸かせてきました。最速162km/hの速球が夏の甲子園でどのような活躍があるのか誰もが期待をしていたからです。

しかし、2019年7月25日に行われた岩手県大会決勝戦に、大船渡対花巻東戦では、12‐2というスコアで花巻東が大勝し、エース投手である朗希選手はマウンドに上がることも無く夏がそのまま終わってしまったのです。楽しみにしていた朗希選手がマウンドに上がることができなかった原因に、大船渡高校の國保監督が朗希選手の左ひじを高校野球のために壊したくないという理由からでした。國保監督はクリニックで骨密度を測定したところ、160km/h以上の球速に耐えられる骨、筋肉、靭帯、関節ではなかったことを知ったからでした。國保監督も今後プロ野球で活躍するであろう朗希選手の将来を考えてマウンドに立たせない決意をしました。今後、プロ野球の舞台でも左ひじが故障しないか心配の声が残っているようです。

佐々木朗希のプロフィール

生年月日:2001年11月3日

身長:190cm

体重:85km

投球・打席:右投げ右打ち

年棒:1600万円

2010年陸前高田市立高田小学校3年生の時に野球を始めますが、2011年3月11日の東日本大震災の大津波で父と祖父母を亡くし、3年生の時に大船渡市に引っ越して、大船渡市立猪川小学校に転校されます。そして地元の軟式少年野球団である「猪川野球クラブ」に入部します。大船渡市立第一野球部では2年生の時にエースナンバーを背負いますが、3年生になる直前の2016年初春に腰の疲労骨折が判明します。痛みを訴えた当初は、地元の病院で身体が硬いだけと診断されますが、そのときに釈然としなかった指導者の方が花巻東高校の佐々木監督に相談をし、大谷翔平選手が高校時代に通った青森県八戸市の病院を紹介してもらい、そこで疲労骨折と診断されて、半年近くリハビリに充てることとなってしまいます。3年生の時に本大会出場は叶わなかったものの、秋に参加した「オール気仙」では岩手大会で優勝、東北大会で準優勝を果たし、全国大会にも出場します。

そのときに当時の自己最速となる141km/hを計測しました。高校進学をするにあたり、岩手県内外の有名私立高校からの勧誘が大変多くあったものの、地元のメンバーと一緒に甲子園を目指すという熱い思いで岩手県立大船渡高校に進学します。1年夏の県大会では147km/h、続いて2年生の夏では154km/hを計測しました。2019年の夏では岩手県大会で準決勝にて一関工業高校に完封勝ちをして決勝進出に貢献するも、決勝戦では故障予防の理由で朗希選手が出場回避し、その結果大船渡高校は敗退しました。このことで大船渡高校に苦情の電話が鳴り響き、野球関係者や評論化の中でも議論が行われ、メディアでも取り上げられるほどの社会問題に発展しました。2019年10月17日の行われたドラフト会議で、北海道日本ファイターズ、千葉ロッテマリーンズ、東北楽天ゴールデンイーグルス、埼玉西武ライオンズの4球団から1位指名を受けて、抽選の結果ロッテが交渉権を獲得しました。

佐々木朗希の父や母の職業は何?母子家庭での兄のエピソードとは!まとめ

小学生のころに東日本大震災で父親と祖父母を亡くされて、引っ越しまで余儀なくされた佐々木朗希選手。父親との楽しかった日々も震災であっという間に奪われてしまった朗希選手はお兄さんとともに野球に打ち込む日々だったと思うとすぐに涙がこぼれ落ちてしまいそうになります。父親代わりに厳しく接した琉希さんも家長としての責任も背負っていたでしょうし、それを見守るしかなかった母親の勝子さんも大変つらかったかもしれません。しかし、そんな環境でも一途に野球に邁進してきた朗希選手は見事に高校野球で活躍し、甲子園一歩手前で左ひじの違和感に対して監督の指示通りに動いたのも今後の自分がプロ野球選手として活躍したい思いが強かったからだと思います。

もちろん、この時には世間が苦情の電話を慣らすほど、チームの選手に対しては甲子園に行かせたいという気持ちがないのかと思われても仕方のない判断だったかもしれませんが、國府監督も相当な苦渋の選択だったに違いありません。しかし、朗希選手も大船渡高校のメンバーも辛い東日本大震災を乗り越えてきた方々ですし、一人一人が朗希選手の身体に関しても理解をしていたのではないかと思います。朗希選手は今後もプロ野球選手として活躍することでこれまでのことを見返せるチャンスがありますから、ぜひプロ野球の舞台で活躍をしてこれで良かったのだと誰もが納得する形をぜひ作っていただきたいと思います。

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